新発田城の歴史と観光案内
旧新発田城時代(新発田城の歴史第一幕)
揚北衆(鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人豪族のこと。
揚北とは阿賀野川(揚河)北岸地域のことであり、阿賀北衆ともいう)
の豪族 新発田氏(旧新発田市、旧豊浦町:新発田城)が新発田城 歴史の発端
揚北衆は他に(主な豪族)
■大川氏(旧山北町:藤懸城) ■下条氏(旧京ヶ瀬村:下条城)
■本庄氏(旧村上市:本庄城、猿沢城) ■垂水氏(関川村:垂水城)
■鮎川氏(旧朝日村:大葉沢城) ■中条氏(旧中条町:鳥坂城、江上館)
■色部氏(旧神林村、粟島浦村、村上市岩船地区、関川村、旧荒川町:平林城)
■黒川氏(旧黒川村:黒川城) ■加地氏(旧加治川村、新発田市菅谷地区:加地城)
■竹俣氏(新発田市川東地区:竹俣城)■五十公野氏(新発田市五十公野地区:五十公野城)
■大見安田氏(旧安田町:安田城) ■水原氏(旧水原町:水原城)
いて新発田氏を含めると13の豪族がいたことになります。
新発田氏の領土は現在の新発田市、新潟市、三条市までと広範囲に及んでいました
新発田長敦の代には上杉謙信に従い活躍していましたが謙信没後に
上杉家の家督争いが勃発御館の乱がおきます
この戦で上杉景勝に従って活躍しますが、
新発田長敦が急死、死後弟の重家が新発田家を継ぐのですが武功の評価が高いにもかかわらず
恩賞がなく不満をつのらせている所に織田信長(1534年〜1582年)が声をかけ
「新発田重家の乱(1581年)」が勃発
以後新発田重家が7年間にわたり上杉景勝、直江兼続と戦うことになります
戦い6年目の五十公野城没落に続き本拠地の新発田城が落城(1587年)これによって新発田氏は滅亡しました。
ただし重家の弟、盛喜は色部長実の仲介によって後に帰参。母方の姓である新保氏を名乗り、
子孫は代々米沢藩侍組として家名を繋いだそうです。
溝口家の新発田城時代(新発田城の歴史第二幕)
現在の新発田城の歴史は上杉時代の代官の城跡に形成されたのが始まりです
藩主の溝口氏は豊臣秀吉(1537年〜1598年)の命により越後を統治していた上杉景勝が会津に移封された後
春日山城に堀秀治 坂戸城に堀直寄 村上城に村上義明 そして新発田城に溝口秀勝と配置される(1598年当時50歳)
溝口秀勝はもともと丹羽長秀の家臣だったが織田信長に認められ豊臣秀吉の使えることになる
この溝口秀勝が織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城築城を手伝った経験を元に
治水、防御などを考慮し五十六年かけて新発田城を完成(1659年)させました
(っとなると着工は1603年かな?)完成したときは三代目溝口宣直の時代とされています。
ただこの新発田城も十四年後(1673年)二の丸 本丸が火災にあい翌年の大震災でさらに
傷んだお城の修復には30年の時がかかったそうです
この修復には美濃の斎藤氏が家臣長井清左衛門などが指揮をとったそうです
新発田城の石垣は乱積法の「野積み」ではなく当時の最高技術である
「切り込みはぎ」と角は「算木積み」法に直され 江戸の石工 大阪の瓦を使ていたそうです。
(国の重要文化財)
武家屋敷801軒 町屋453軒 の城下町は幕末 吉田松陰が視察におとずれているほどです。
歴代藩主の名前
初代 溝口秀勝(1548年〜1610年)
二代目 溝口宣勝(1582年〜1628年)
三代目 溝口宣直(1605年〜1678年)
四代目 溝口重雄(1633年〜1708年)
五代目 溝口重元(1680年〜1718年)
六代目 溝口直治(1706年〜1732年)
七代目 溝口直温(1716年〜1780年)
八代目 溝口直養(1738年〜1796年)
九代目 溝口直候(1778年〜1804年)
十代目 溝口直諒(1799年〜1858年)
十一代 溝口直溥(1819年〜1874年)
十二代 溝口直正(1856年〜1919年)
明治四年廃藩置県にて溝口家が百七十年間統治していた新発田藩廃止
余談ではありますがこの溝口氏は清和源氏の一流・河内源氏の一門、
源義光を始祖とする甲斐源氏の庶家(わかりやすくいうと分家)だそうです。
もうちょっと噛み砕いてみると源氏の流れを組む武田信玄のいた武田家の分家と言うことですね
武田家の家紋と溝口家の家紋がどおりで似ているわけですね
江戸時代に溝口氏の”お膝元”であった歴史から、
この溝口家の家紋である溝口菱を新発田市の市章として現在使われています。
今で言う武田家の分家にあたる溝口氏 それ以前の新発田氏も上杉一族と
戦っていた歴史をみると上越地域と新発田は昔は仲が悪かったんですね(笑
堀部安兵衛
新発田出身の武士として全国で最も有名なのが堀部安兵衛(1670年生1703年)です
堀部 武庸(ほりべ たけつね) 中山安兵衛
堀部弥兵衛など色々な名前を持っている人物ですがここはすこし省略します
安兵衛は赤穂浪士四十七士の一人で四十七士No1の剣客と言われ大石良雄に匹敵する人気の人物です
昔は赤穂浪士のテレビでよく見たものです
母は新発田藩士溝口盛政の六女で
(この盛政は新発田藩主の溝口家と血縁関係ではないそうです)
新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生とあります
安兵衛にまつわるところはたくさんありますが新発田の長徳寺様には
堀部安兵衛が幼少の頃に遊んだとされる松の木などもあります
五代目 溝口重元の時代に
大石良雄・堀部武庸ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良義央の屋敷へ討ち入りました(1703年1月30日)
そうあの有名な義士の討ち入りです。
[現在の新発田城]
新発田城は日本の100名城にも選ばれているお城で
新潟県に唯一 江戸時代からの建造物が残る本物のお城です
新発田城のその他
新発田城の別名には他に菖蒲城なんて呼び名もあります
近年は日本100名城めぐりのお客様も増えてきています
この写真は新発田市民には有名な新発田城址公園の新発田城の桜です。
夜になるとこのようにライトアップされ花見で盛り上がってます。
夜9時くらいまで公園の駐車場開いているんですよ
(同じ新発田市の公園ですがますがた荘のある五十公野公園では無いです!)
っで夜のお祭には屋台がつきものでして。
色々な屋台が出ていますよ
さて新発田には「じょうきぱん」っという屋台の名物があります。
新潟市の当たりから中越方面は「ポッポ焼き」って言われていますが
これ実は新潟県だけの食べ物です。
いつかケンミンショーに出てみんな食べたいって言うんじゃないでしょうか?(笑
新発田城へのアクセス
鉄 道: JR羽越本線新発田駅~バス/城趾公園前 徒歩15分程度
車 : 日本海東北道聖籠新発田IC~国道7号線~県道21号線
駐車場: 新発田城址公園の無料駐車場を利用。
ますがた荘:お車で新発田駅前通過 下町交番右折 突き当たり右約100m 所要時間10分程度
おまけ
新発田重家は当初五十公野家を継いで五十公野 治長(いじみの はるなが)と称していたそうです
川中島の戦い第四次合戦(一番激しい戦いで川中島の戦いと言われるのは一般的にはこれのこと)
で諸角虎定を討ち取ったのは新発田勢と言う説もあります。
また蘆名盛氏や伊達輝宗(伊達 政宗 独眼竜 の父)とも争い退けだ猛将として大活躍した人物です