五十公野城(新発田城の歴史と関わりの深い山城)

五十公野城の歴史と新発田城の関わり

新発田重家が五十公野氏の養子となり一時期おさめた城。その時は
五十公野 治長(いじみの はるなが)と名乗る

御館の乱の後に景勝勢と戦うことになった重家方の城として、
重家の妹婿五十公野道如斉(長沢道如斎)が新発田城でともに最後まで
景勝勢に対抗するが直江兼続が総指揮を執る1万人の軍勢によって落城させられる。

第四次川中島合戦(川中島の戦い)御館の乱の時には五十公野 治長(新発田重家)として
実の兄 尾張守長敦(新発田長敦)とともに大活躍した
余談ですがこの兄尾張守長敦(新発田長敦)は
上杉謙信の七手組大将 本庄繁長、色部勝長、中条藤資、
加地春綱、竹俣清綱、柿崎景家の武将と並ぶ武人の一人である

この五十公野道如斉(長沢道如斎)と言う人物は上杉謙信に仕え
三条の町奉行として「三条道如斎」を名乗り三条町奉行として活躍していました
ところが五十公野城の城主についた時にこの持っていた三条の地の利権を失ってしまいます

これが後々の五十公野城落城へと続くことになります。

さてこの五十公野氏と新発田氏はかなり近い親戚筋と言えるのでしょう
(なんか養子だのなんだので正確にはわかりませんけど)
この新発田氏の血すじを見ていきますと佐々木 盛綱の名前が出てきます
佐々木 盛綱 は別名 加地 盛綱とも呼ばれていますので
これが加地氏 → 新発田氏 の流れになっているのでしょう
(佐々木 盛綱は御存知の通り源頼朝の側近です)

五十公野城の地図

五十公野城の地図

新発田近辺の豪族

■新発田氏 ■色部氏 ■加地氏 ■竹俣氏 ■五十公野氏
この豪族は新発田氏を中心とした血縁筋なんでしょうね(資料みていると)
新発田市には加治小学校 竹俣小学校 五十公野小学校とありますのでこれはここからの由来でしょうか?

五十公野城の上洛

天正15年(1587年)
青蓮院尊朝親王が、降伏の使者を送る→拒否
加地秀綱の加地城が9月7日に落城
蘆名氏の家臣で新発田氏の支援にまわっていた小田切盛昭の
赤谷城が9月10日に落城
これにより、新発田城と五十公野城は完全に孤立します。
9月24日、豊臣秀吉が、降伏の使者を送る→拒否
五十公野城は10月13日上杉景勝軍、直江兼続の武将藤田信吉により落城します。
10月28日新発田城落城

五十公野城の地図

五十公野城の地図

7年もの間この新発田氏と五十公野氏は上杉軍、直江兼続と戦い合った
ということは全国時代でもかなりの猛者だったのでしょうね
しかも最終的には五十公野城は調略された内応者(羽黒氏、河瀬氏、渋谷氏)によって開門させたとありますので
とにかく手を焼いたのでしょうね

五十公野城の地図

五十公野城の地図

っと色々調べてもだいたいこのようなことが書いてあります。
歴史的なことはこれ以上はよくわかりません。
新発田には他にも加治城や大天城、菅谷城など地元には有名な城跡も有り数を数えれば30以上もあるそうです。
中にはあまり知られていませんが升潟山城という山城もあったそうです

五十公野城の入り口階段

五十公野城の入り口階段

ちょっと違う角度で。
このお城、私の育った東中学校の裏手にありまして昔はよく行ったものです。
たぶん今でも土掘ると矢じりとかでてくるんじゃないかな?
基本的には石のあとがある程度であとは大きな石碑があります。
近くの安楽寺さまと千光寺さまの辺りが入り口になっていて
古四王神社や奉先堂などとつなかっています。
つながっているといっても山道ですけどね。

そういえば中学校の時は部活でよくこの山道走ったもんです。
千光寺さまにある千手観音のお祭は2月17日、
ちいさいお祭ですけど屋台とかちゃんと出るんですよ
みんな子供のときの思い出ですね

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